東日本大震災から3年

3.11 震災の日を迎えて

東日本大震災から3年が経ちました。

当時、私は東京の伸芽会銀座教室で教室長を務めており、震災にあった時は3歳児クラスの授業中でした。

授業終了直前だったため、保護者が教室に戻っていたのは不幸中の幸いでした。

東京 銀座でのあの日

大きな揺れに動物がうなるような地鳴りを感じ、大学一年生の時に神戸で遭った阪神淡路大震災と同じ状況が頭に浮かびました。

大きな揺れの中、子どもたちには「ゾウさんが遊びに来たのかな、かくれんぼしよう!」と言って揺れを過度に怖がらないよう、机の下に避難させ、保護者を傍に呼びました。

子どもたちは怖がるよりもむしろ揺れを楽しんでいるように見えました。怖い思いをし、悲鳴をあげているのは大人です。

子どもたちを迅速に帰宅させるために

揺れがおさまるとすぐに行動を起こさなければいけません。あの大きな揺れで電車は一日動かないことは容易に想像できました。そして、道路はあと1時間もすればどうにもならないほどの渋滞になるに違いありません。

時間との勝負でした。子どもたちと保護者の誘導は優秀な女性社員に任せ、男性社員を連れて先にタクシーの確保に走りました。

銀座は呆然と立ち尽くす人に溢れ、電車で帰ろうと絶対に動いているはずのない地下鉄の駅に向かって地下へ入っていきます。

大きく手を振り、声をあげて、向かってくるタクシーを全て教室の前へ誘導しました。遠方の方を優先にタクシーに乗せ、バスで帰れる方はちょうどタイミングよくやって来たバスに乗って頂き、スムーズに揺れがおさまって5分足らずで全員帰宅の途につくことができました。

後日、「あのとき動揺してどうしたらいいか全く分からなかったところを、迅速に帰宅する方法を指示してくださったので、無事にすぐ自宅に帰れました。あと30分行動が遅かったら、いつ家に帰れたのか分かりません。」と仰っていただけました。

私は教室とスタッフを守るため、その日は泊まりを決意して2日分の食料の確保に走りました。

仙台はふるさとのような土地

宮城県仙台市は、両親が転勤で住んでいたことがあり、私にとってもふるさとのような土地です。

しかし、震災後、どうしても東北を訪れることができません。毎日見ていたあの景色がなくなっているのを目の当たりにするのは、もう神戸だけで十分だと心の深い傷が痛み、またその痛みに耐えられる自信がないのです。

知人の弔いと私の使命

志半ばにして津波にのまれて亡くなった知人の命に手を合わせ、私の使命である「子どもたちが日本のみならず、世界をリードする人材へと成長する土台教育」に尽力することが一番の弔いになると信じて、3年目の震災の日をおくります。